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石原知事「ババァ」発言、女性たちの賠償請求棄却

東京都の石原慎太郎知事(72)が週刊誌で「文明がもたらした最も悪しき有害なものはババァ」などと発言した問題を巡り、都内の女性131人が石原知事に約1440万円の損害賠償と謝罪広告を求めた訴訟の判決が24日、東京地裁であり、河村吉晃裁判長は「不適切な表現だが、女性全般について個人的な意見を述べたもので、原告個人の名誉を傷つけたとはいえない」として請求を棄却する一方、判決は「男女平等を規定した憲法の基本理念と相いれず、(知事という)要職にある者の発言として不用意だった」とも指摘しました。

あちこちのMLやホームページを見ると判決について否定的な見解が多いようですが、私は、今回の判決の結論は概ね妥当ではないかと思います。

最近、ある集団に関する表現行為について、その集団に属する個々人に損害賠償請求権を認めようとする動きがありますが、私は基本的には、反対の立場です。(なお、私は決して石原都知事発言それ自体を擁護するつもりはありません。政治家として姿勢に大いに疑問を感じますし、こういう都知事を擁していることを一都民として恥ずかしくも思っています。その政治的な責任は大いに追及されてしかるべきでしょう。)

例えば、
女性差別発言
人種差別発言
部落差別発言
などについても、特定の個人に対し向けられたものではない限り、慰謝料請求権を認めるべきではないと思います。
それは、表現の自由の問題との関係で、非常に微妙な問題を孕んでいるからです。

理由
(1) 非常に安易な言葉狩りにつながりかねず、却って問題の所在を不明確にする危険性が強いこと。
    差別について語るためには、差別的な表現を避けて通ることは出来ませんが、差別的な表現をどのように受け止めるかは、最終的には個々人の問題です。人の感性がさまざまである以上、ある種の表現について「不愉快」と受け止める人がいることもある意味当然のことであり、そのような場合に、一々慰謝料請求権を認めていては、自由な議論をすることが非常に難しくなります。

(2)特定の「集団」が自らに対する批判を封殺するための手段として、訴訟制度を悪用する可能性があること。
例えば、ある企業ないし宗教団体の構成員が、自らの所属する集団に対する批判を封殺するために、個々の構成員が原告となって一斉に全国で訴訟提起するようなことが考えられます。

   実際、「幸福の科学」という宗教団体の信者らが、「幸福の科学」に対する批判的な記事を掲載した出版社に対し、訴訟を提起しているという事件が多数あります。

   代表的な判決としては、高松高等裁判所平成6年10月25日判決がありますが、この判決において裁判所は、
「直接被害者の損害以外に、すべての間接被害者の損害(以下、「間接損害」という。)についてもその損害賠償を一般的に認めることになれば、その被害者及び損害が不当に著しく拡大され、加害者に過大かつ予測不可能な負担を課することとなって、損害の公平な分担という不法行為制度の趣旨に照らして妥当でないと考えられるので、間接被害者は、その間接損害につき、原則として不法行為に基づく損害賠償請求ができず、例外的に、民法
七一一条に基づき慰謝料請求をする場合、その他、直接被害者との人的結びつきが深く、固有の連繋性により直接被害者と社会経済的に一体関係がある場合で、かつ、直接被害者への損害賠償のみでは償いきれないものがあって、間接被害を認めることが相互の公平に合致する場合に限ってその請求ができるものと解するのが相当である。」

と判示しており、そのロジックは、今回の石原都知事の「暴言」についても妥当するのではないかと思います。

  表現の自由の観点からは、「女性全体に対する侮辱」行為について慰謝料請求権を認めなかった今回の判決の結論は妥当であると言わざるを得ません。

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自民党憲法改正草案と「牛丼」「カレー」論争①

自民党新憲法起草委員会の「国民の権利及び義務小委員会」(小委員長=船田元・元経企庁長官)がまとめた憲法改正の論点メモの内容が分かりました。

(権利を制約するもの)
信教の自由(20条):「政教分離原則を守りつつ、国や地方自治体の地鎮祭関与や玉ぐし料支出については、社会的儀礼や習俗的行事の範囲内であるとして、許容する」と明記しています。

表現の自由(21条) :については「青少年の健全育成に悪影響を与える可能性のある有害情報や図書の出版・販売は法律で制限・禁止できる」としています。結社の自由(同)についても「国家や社会秩序を著しく害する目的で作られる結社は、制限できる」としています。

財産権の制限(29条):目的に「良好な環境の保護」を加えるそうです。

(権利を追加するもの)
「知る権利(情報アクセス権)」
「個人のプライバシーを守る権利」
「犯罪被害者の権利」
「環境権」
「外国人の権利」(「在日外国人の地方参政権にも道を開くべきか」として、外国人参政権問題が論点になると付記)
「知的財産権」
「企業その他の経済活動の自由」

(「責務」を追加するもの)
「国防の責務」
「社会的費用を負担する責務」
「家庭を保護する責務」
「環境を守る責務」
「生命倫理を尊重する責務」

それを見た結果、分かったことは、自民党新憲法起草委員会の「国民の権利及び義務小委員会」の先生方は、「憲法」がどういうものか全く分かってらっしゃらない、ということです。

(問題点)
 憲法が、単なる「法律」(=国会制定法)に効力上優越する上位規範に過ぎないという前提となっています。
 「法律」以下、「命令」「条例」などの下位法規範はいずれも「国民」を名宛人とするものですが、「憲法」は「国家権力」を名宛人とする法規範であるという点で、全く性質が異なるものであるという点を理解されていません。

 現代の民主主義国家においては、「国家権力」を行使する政府は選挙を基礎として選出されるため、国民の中における多数派が国家権力行使の主体となります。憲法が、国家権力を名宛人とする法規範である以上、憲法は、多数派による権力行使に歯止めをかけ、多数決の原理を持ってしても犯しえない基本的な権利(=人権)を規定する法規範として機能しなくてはなりませんが、自民党案は、人権の内容について法律(=多数決)で制約を加えることを広く承認する一方で、国民の責務(≒義務)を認めるものになっています。

(質問)
多数決は民主主義の基本ではないのですか?何故、多数決の原理を制約することが必要なのでしょうか?

(回答)
 多数決の原理を持ってしても侵害し得ない権利を保証することは国家が安定的に存立する上で必要不可欠だからです。
 何故ならば、国民の持つ価値観は絶えず変化しており、今日の多数派が明日の多数派であるとは限らないからであり、また、人間は試行錯誤を繰り返す存在であり、多数派の意見が常に正しいとは言えないことを素直に認めて国家の制度設計をしなくてはならないからです。

 仮に、多数決の原理を無制限のものとしてしまうと、多数派は、少数派が多数決を通じて多数派となる機会を奪うことが可能となります。結果、多数派は、自らの持つ価値観を少なくとも法規範ないし制度の上では、永久的なものとすることが可能となります。
 その場合、国民の意識が変化し、従来の少数意見が多数意見となった場合においても、選挙により多数意見を権力に反映することは不可能となり、合法的な手段による法制度の変更が不可能となり、国家の基盤は揺らぐことに繋がりかねません。
 また、多数派の意見が間違っていた場合にも、合法的な手段による是正が不可能となり、やはり国家の行く末が不安定となることが避けられなくなります。

 したがって、憲法改正を議論する際には、憲法が国家権力を名宛人とする法規範であり、多数派による権力行使に歯止めをかける法規範であることを忘れてはならないのですが、自民党案には、その点に考えを巡らせた形跡すら殆どありません。

 「牛丼」「カレー」論争 の意味については、次回に書くことにします。お楽しみに。

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人権擁護法案に異議あり!

人権団体や報道機関などの批判を受けて2年前に廃案となった人権擁護法案が今国会で再提出されそうです。

人権侵害の主体となりうる存在は色々とありますが、国家の三権力の中で国民の人権を侵害する可能性がもっとも高いといえるのは、行政権でしょう。したがって、少なくとも、人権委員会は行政権から独立したものでなければなりません。

ところが、この法案では人権委員会を法務省の外局として設置するという方針が依然として維持されています。

そして、日本の法務省は、
国家対市民の訴訟において行政権を代表する立場
にある上に、

・「昭和58年10月6・7日開催の全国次長検事会同における次長検事指示」により、刑事事件、再審事件において証拠の開示を頑なに拒み、
・人権侵害の可能性の高い取調過程の「可視化」に頑なに抵抗し、
・受刑者の処遇不満の申し立てにもほとんど対応せず、
・国民監視機関である公安調査庁を傘下にもち、
・国連が難民と認定したクルド人を強制送還(本年1月18日)し、
・獄中者の処遇、死刑囚の処遇について国連の人権委員会から度重なる勧告を受けながらもこれを無視し、
てきた法務省は、むしろ、独立した人権機関から「調査」を受けるべきではないでしょうか。

私は、このような人権擁護法案の持つ問題点や危険性を広く訴え、国会への上程に反対するものです。

代案ですが、日本弁護士連合会と各都道府県の単位弁護士会には、人権擁護委員会という組織があり、何らの法的権限がないにもかかわらず、これまで、警察官による様々な人権侵害、拘禁施設における処遇問題、報道機関による名誉毀損、子どもに対するいじめ、虐待、体罰、外国人に関する入・出国管理上の不利益な取扱等々に関して多くの勧告や警告を行ってきています。また、支援を決定した刑事再審事件については、4件の死刑判決、8件の有罪判決について無罪判決を勝ち取っているという実績があり、 人権擁護委員会のこれらの活動は、社会的に一定の評価を受け、いろいろな方面に様々な影響力を及ぼしています。

人権擁護活動は、まさに、弁護士法第1条「弁護士は基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とする」に基づき、国内のあらゆる人権問題みならず国際的な人権問題についての調査・研究活動を行っている日弁連にふさわしい仕事だと思います。
日弁連の人権擁護委員会に法的な調査権限を付与し、勧告・警告等の処置についての効力に強制力を持たせるようにすればいいと思いますが、いかがでしょうか?

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青少年が知能犯となる原因は?

警察庁の発表によると、少年犯罪のうち、知能犯が激増しているそうです。

刑法犯では詐欺や偽造事件の知能犯が1240人で前年より6割増え、その内訳は、知能犯では、詐欺が1077人で全体の8割を超え、「譲渡目的での口座開設」「架空請求詐欺」が含まれる「その他詐欺」が前年の4倍の240人、通貨などの偽造事件が108人に上っているそうです。

私が問題だと思うのは、その問題点に関する分析です。警察庁は、
犯罪の手口を紹介した情報誌やインターネットの書き込みが増えたことを挙げ、「容易で気軽に犯罪行為に手を出せる社会環境が背景にあるのではないか」と分析しているそうです。

またもや、「メディア悪人説」の登場ですが、果たしてそうなのでしょうか。
インターネットの発達が大人社会と少年社会の垣根を取り払ってしまい、従来は、大人しか知ることが出来なかった現実に少年が接するようになったことは事実でしょう。
しかし、問題は、現在の大人社会の現実の方にあると思います。
日本の企業は、今までの年功序列制による右肩上がりの賃金制度を廃止し、年俸制や歩合制を用いるようになり、結果として、経済的な格差が拡大し、 「勝ち組」と「負け組」への二極分化がはっきりしつつあります。いっぽうで、リストラや会社の倒産も多くなり、一流と言われていた企業や政府関係者による不祥事も明らかになりつつあります。
要するに、青少年は、メディアを通じて見えてきた「大人社会」から、
 「真面目に働いても明るい将来は見えてこない。」
 「金儲け=正義」
 「手軽な犯罪は階層向上のためのビジネスチャンス。」
という「本音」のメッセージを受け取ってしまっている訳です。

大人社会の現実を変えない限り、メディアを規制しても青少年が犯罪により「一攫千金」を狙うという構造は変わらないでしょうし、むしろ、不都合な情報を隠蔽しようとする大人社会の姿勢から、
 「ばれなければ、何をやってもいい」
という「本音」のメッセージを受け取ってしまうだけでしょう。

なお、本稿を作成するにあたっては、
東京学芸大学教授の山田昌弘先生の「希望格差社会」という御著書を参考にさせていただきました。

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