【画期的判決】<国旗国歌>学校強制に違憲判決 教職員401人が全面勝訴【日の丸】【君が代】
卒業式や入学式などで、日の丸に向かって起立し、君が代を斉唱するよう義務付けた東京都教委の通達は違憲違法だとして、都立学校の教職員ら401人が義務がないことの確認などを求めた訴訟で、東京地裁は21日、原告全面勝訴の判決を言い渡した。難波孝一裁判長は「通達は不当な強制に当たり、憲法が認める思想・良心の自由を侵し、教育基本法にも違反する」と指摘。教職員らに従う義務がないことを確認したうえ、通達違反を理由にした処分の禁止や1人当たり3万円の賠償も都と都教委に命じた。都側は控訴する方針。
判決は、国旗国歌の生徒への指導が有意義であることを認めつつ、懲戒処分などを背景に教職員に強制するのは「行き過ぎた措置」と明確に断じ、教育現場での日の丸、君が代を巡る訴訟で初めて違憲判断を示した。処分の「事前差し止め」を認めた判決は異例。全国各地の同種訴訟に大きな影響を与えそうだ。
争われたのは、都教委が03年10月23日に都立の高校や盲・ろう・養護学校長あてに出した「入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱の実施について(通達)」。都教委は通達に基づき、教職員に式典での起立などを命じる職務命令を出すよう校長に指示した。
判決はまず、日の丸、君が代について「第二次大戦までの間、皇国思想や軍国主義の精神的支柱として用いられ、現在も国民の間で宗教的、政治的に価値中立的なものと認められるまでには至っていない」と指摘。「掲揚や斉唱に反対する教職員の思想・良心の自由も、他者の権利を侵害するなど公共の福祉に反しない限り、憲法上保護に値する」と位置づけた。
通達については(1)斉唱などの具体的方法を詳細に指示し、校長に裁量を許していない(2)校長が出した職務命令違反を理由に、多くの教職員が懲戒処分などを受けた――などと認定した。
そのうえで「通達や都教委の指導、校長の職務命令は、教職員に一方的な一定の理論や観念を生徒に教え込むことを強制するに等しい」として、教育基本法10条1項で定めた「不当な支配」に当たり違法と判断。「公共の福祉の観点から許される制約の範囲を超えている」として、憲法19条の思想・良心の自由にも違反すると結論付けた。
さらに、通達に違反したことを理由にした懲戒処分は「裁量権の乱用に当たる」として今後の処分を禁止。「教職員は、従う義務がないのに思想・良心に反して職務命令に従わされ、精神的苦痛を受けた」として、退職者も含めて慰謝料を認めた。【高倉友彰】
▽原告団、弁護団の声明 思想・良心の自由の重要性を正面からうたいあげた判決で、わが国の憲法訴訟上、画期的だ。教育への不当・不要な介入を厳に戒めており、教育基本法改悪の流れにも強く歯止めをかける内容だ。
▽都教委の中村正彦教育長の話 主張が認められなかったことは、大変遺憾なこと。判決内容を詳細に確認して、今後の対応を検討したい。
(毎日新聞) - 9月21日21時50分
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私は、日の丸、君が代は、国旗及び国歌に関する法律が制定される以前から、国旗であり国歌であるという立場ですし、日の丸が国旗、君が代が国歌のままで構わないと考えています。それは、以下のような理由に基づきます。
確かに、歴史的な経緯を鑑みれば、日の丸、君が代が国旗、国歌として相応しくないという意見の理由も理性的には分からなくもありません。
しかしながら、子どもの頃に、アメリカで長く生活し、日本人学校ではなく現地校に通い、友達も殆んどアメリカ人、話す言葉も英語、という生活をしていると自分が一体何者なのかということを日常的に考えさせられます。これは、日本でずっと生活された人やある程度成長してから海外に行かれた人には分からない感覚だと思いますが、例えば、ニューヨークの国際連合本部前において日の丸の旗が翻るのを見て、あるいは、国際的な競技会などで君が代が流れるのを聞くたびに、自分が「日本人」であるというアイデンティティーを再確認し、アメリカに住み暮らそうとも、自分の五体と心は日本の風土と結びついていることを感じ、日本こそが「我が祖国」であるということを理屈抜きに実感してしまうのです。非常に不思議な感覚としか言いようがありませんが、日の丸、君が代以外を国旗、国歌としては受け止め難く思うのです(情緒的な意見で済みません)。
という訳で、日本の国旗=日の丸、日本の国歌=君が代、で全く構わないというか、他に考えられないというのが私の考え方です。
ただ、日の丸、君が代の押し付けには絶対反対します。日の丸を掲げろ、君が代を歌え、と強制することは間違いですし、その風潮がある限り、市民の反発を買うことは当然です。というか、僕自身も強い反発があります。日本は、思想良心の自由(特に、少数者の!)を初めとする人権を尊重する民主主義国家であり、国旗、国歌は日本という国のあり方を定めた日本国憲法の理念の象徴の筈です。幾ら公務員とは言え、懲戒処分による恫喝をちらつかせ、起立・斉唱を強制すること自体、国旗、国歌の理念に反するというのが私の意見です。「式での国歌斉唱などを積極的に妨害したり、生徒に国旗国歌の拒否をあおったり」する行為は、公務員である以上、規律違反に問われても仕方が無いのかも知れませんが、消極的に拒否することまでも取り締まるのは明らかに行き過ぎでしょう。日の丸、君が代は、掲げたい人が掲げ、歌いたい人が歌えばよいのです。
学校において、日の丸、君が代が国旗であり、国歌であるという知識そのものを教えることはともかく、「懲戒処分をしてまで起立、斉唱させること」は、明らかに行き過ぎであり、憲法19条の保障する思想・良心の自由に反することは、明らかです。今回の東京地方裁判所の判断は、非常にもっともな判断を端的に示した画期的な判決であり、高く評価したいと思いますし、どうせ、東京都は控訴してくるでしょうから、東京高等裁判所においても、さらには、最高裁判所においても同様の判断が示されることを強く願っています。
なお、小泉首相は、
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<国旗国歌>小泉首相が違憲判決に疑問
小泉首相は21日、入学式や卒業式で日の丸に向かっての起立や君が代斉唱を強制したことを違憲とした判決について「法律以前の問題じゃないでしょうかね。人間として、国旗や国歌に敬意を表すというのは」と述べ、疑問を投げかけた。思想・良心の自由については「裁判でよく判断していただきたい」と述べるにとどめた。
(毎日新聞) - 9月21日21時13分
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と述べていますが、「国旗や国歌」を法律で定めてしまった以上、法律に従うことを求めることは出来ても、法律で定めた内容について、「敬意を表す」ことを求めることは出来ないでしょう。法律に従うことを要求することは出来ても(上位規範である憲法に違反しないという大前提あり)、法律に定めた内容に「敬意を表す」ことを求めることは民主主義国家では許されないことです。
何故ならば、法律というのは、ある時点における多数派の民意の反映に過ぎず、別の考え方が多数派を占めるに至れば、改廃されるべきものだからであり、市民は、常に、法律について批判的に考える自由を有するからです。つまり、国民の持つ価値観は絶えず変化しており、今日の多数派が明日の多数派であるとは限らない以上、また、人間は試行錯誤を繰り返す存在であり、多数派の意見が常に正しいとは言えないという事実を素直に認めて国家の制度設計をしなくてはならないからです。
実は、国旗及び国歌に関する法律を制定してしまったことの弊害はここにあります。法律さえ変えれば、国旗・国歌も変えられることになったのです。非常に、極端な例を挙げれば、インターナショナルを国歌にし、「鎌トンカチと星」を縫い取りにした赤い旗を国旗にすることも可能になってしまったのです。何だかんだ言って、日の丸と君が代は、日本の国旗と国歌として世界的に認知されていますし、他に、国旗と国歌として相応しい候補がある訳でもありません。憲法的な習律として、そのままにしておけばよかったのです。
参照⇒杉浦法務大臣初登庁後記者会見