第3次男女共同参画基本計画(中間整理)案に創作物規制案が!
において紹介しました、「第3次男女共同参画基本計画策定に向けて(中間整理)」に対するパブリックコメントを送りました。
<パブリックコメントの募集期間>
平成22年4月16日(金)~平成22年5月12日(水) ※郵送の場合は、平成22年5月12日消印有効
<パブリックコメントの送付方法>をご覧になれば、分かるとおり、対象項目ごと、
第8分野 女性に対するあらゆる暴力の根絶
第12分野「メディアにおける男女共同参画の推進」
に送らなくてはならないので、
第8分野 女性に対するあらゆる暴力の根絶
第12分野「メディアにおける男女共同参画の推進」
の順番で、提出した意見を掲載します。なお、重複箇所も多いため、
第8分野 女性に対するあらゆる暴力の根絶
において、下線を引いてある箇所は、
第12分野「メディアにおける男女共同参画の推進」
では、省略していますので、お気をつけください。
☆★☆★第8分野 女性に対するあらゆる暴力の根絶に対するパブリックコメント☆★☆★
[意見内容]
「第8分野 女性に対するあらゆる暴力の根絶」、「8 メディアにおける性・暴力表現への対応」、「③ 児童ポルノの根絶に向けて、国民運動の実施、インターネット上の流通防止対策の推進や閲覧防止対策の検討等総合的な対策を検討・推進するとともに、児童ポルノ法の見直しや写真・映像と同程度に写実的な漫画・コンピュータグラフィックスによるものの規制の在り方について検討する。」(P38)について意見を述べます。
漫画・コンピュータグラフィックス(以下、纏めて「創作物」)によるキャラクターは、どんなに性的の虐待対象とされていようとも被害者ではありません。映画や小説の中の犯罪行為に実際の被害者が存在しないのと同じ理屈です。これを混同する議論こそ、「現実と空想を区別しない」ものとして、排斥されるべきです。
犯罪への欲望と犯罪行為を同一視することは許されません。描写されている児童との性行為が犯罪であるとしても、児童に対する性的な欲望そのもの、あるいは、これをファンタジーとして受容することは犯罪ではありません。近代国家である以上、この原則を動かすことは出来ません。犯罪への欲望を自己の内面に留めずに、他人が受容しうる表現にした場合も同様です。犯罪を誘発する俗説に反し、実在の児童を被写体とする児童ポルノ、あるいは、実在の児童を被写体としない創作物が現実の性犯罪、性的な虐待を誘発し、性犯罪、性虐待を容認する風潮を助長する根拠は存在しません。実際、創作物規制を導入していない我が国の性犯罪の件数は、規制の厳しい他国と比べても少ないことからも明らかです。
仮に、児童ポルノ法の枠内において、創作物の規制を導入した場合、実在しないキャラクターの年齢が問題になります。実在の児童が被写体となっている場合には、児童の特定が出来なくても、小児科医等の専門家の鑑定により、18歳未満かどうかの客観的な判断はかろうじて可能です。しかしながら、実在しないキャラクターには、設定上の年齢しか存在せず、年齢の設定がないこともあり得ます。人間ではなく、数千歳の宇宙人、年齢の存在しないアンドロイドという設定もあり得ます。結局、「見た目」で判断するしかなくなるが、客観的な判断基準は存在しないため、捜査機関による恣意的な判断を回避する方法はなく、創作活動に対する捜査機関の自由な介入を許してしまうことになりかねません。
さらに、「見た目」を基準として規制を問題にする以上、18歳以上の者が18歳未満であるという設定で登場、出演する表現物についても規制すべきとの議論が巻き起こることは必至です。実際、日本ユニセフ協会等は、同種の主張をしています。しかしながら、これでは、同じ20歳の役者が出演している場合であっても、見た目が若く見える人の場合には、摘発の対象となってしまいますが、これは、容姿、外見による差別に他なりません。
創作物規制は、憲法21条で保障された表現の自由に対する制約に他なりませんが、規制を正当化する対立利益(人権侵害)はどこにも存在せず、憲法21条に違反します。容姿、外見による差別に繋がる可能性もあり、個人の尊厳の尊重を定めた憲法13条にも違反します。憲法や表現の自由を持ち出す以前に「空想と現実を区別しない妄論」であり、常識にも反します。妄論が正論として罷り通りそうな国際的なマス・ヒステリアが存在するのであれば、冷静な検討と議論を呼びかけるのがコンテンツ産業大国である我が国の役割であると考えます。
以上のような理由から、「第8分野 女性に対するあらゆる暴力の根絶」、「8 メディアにおける性・暴力表現への対応」、「③ 児童ポルノの根絶に向けて、国民運動の実施、インターネット上の流通防止対策の推進や閲覧防止対策の検討等総合的な対策を検討・推進するとともに、児童ポルノ法の見直しや写真・映像と同程度に写実的な漫画・コンピュータグラフィックスによるものの規制の在り方について検討する。」(P38)には反対いたします。
次に、「第8分野 女性に対するあらゆる暴力の根絶」、「8 メディアにおける性・暴力表現への対応」「(1) 施策の基本的方向 女性をもっぱら性的ないしは暴力行為の対象として捉えたメディアにおける表現は、女性に対する人権侵害であり、男女共同参画社会の形成を大きく阻害するものである。こうした性・暴力表現については、インターネットの普及等を通じて発信主体が社会一般に拡大していることに加え、パソコンゲーム等バーチャルな分野においても、国際的に重大な懸念が表明されるコンテンツの流通が現実問題となっていることから、有効な対策を講じる。」こと、「(2) 具体的な取組 ④ メディア産業の性・暴力表現の規制に係る自主的取組の促進、DVDやビデオ、パソコンゲーム等バーチャルな分野における性・暴力表現の規制を含めた対策の在り方を検討する。」ことについて、意見を述べます。
「女性をもっぱら性的ないしは暴力行為の対象として捉えたメディアにおける表現は、女性に対する人権侵害であり、」という表現からも明らかなように、「第3次男女共同参画基本計画策定に向けて(中間整理)は、表現行為が「女性」の「集団的な人権」を侵害することを問題としています。
しかしながら、我が国においては、日本国憲法第13条に「個人として尊重」とあるように、個人の尊厳こそが人権の根拠とされており、「集団的な人権」という概念は、日本国憲法の人権概念とは相容れないものです。我が国における人権制約の唯一の根拠は、「公共の福祉」ですが、これは人権と人権が衝突する場合の調整原理です。「集団的な人権」という概念が認められない以上、表現の自由と対立する人権が存在しないというべきであり、「集団的な人権」の侵害は、表現の自由を制約すべき根拠とはなりえないというべきです。
また、理念的な問題はさておいても、「女性の集団的な人権」という概念を認め、「女性の集団的な人権」の侵害を根拠とする表現の自由の制約を認めることは、以下の通り、著しく表現の自由を制約する結果を生じせしめますが、これは、また、この規制を盛り込むのは『北京宣言行動綱領 第Ⅳ章 戦略目標及び行動』に記載されている「表現の自由に矛盾しない範囲」文言に反し(http://www.gender.go.jp/kodo/chapter4-J.html)、また、日本国憲法第21条に反するものです。
第一に、特定の個人を名宛人としない表現行為には具体的な被害者がいない以上、「集団的な人権」が侵害されたか否か、どの程度侵害されたかは、公権力が恣意的に判断することが可能になります。謂わば、公権力に表現内容の是非を判断させる自由裁量権を付与するに等しい結果となります。実際には、具体的な人権侵害を離れた、「~の尊厳に対する罪」のようなものになり、戦前の不敬罪に類似した規制となってしまいます。
第二に、「集団」に属する個人の自己決定権を無視することになります。「集団的な人権」が侵害されたか否かを判断するのは誰なのでしょうか?表現をどのように受け止めるかは、最終的には個々人の問題です。人の感性がさまざまである以上、ある種の表現について差別的と受け止める女性もいるでしょうし、あるいは、問題ないと受け止める女性もいるでしょう。全ての女性に意見を聞くのでしょうか?全ての女性の意見を聞くことは現実的ではない以上、「集団的な人権」が侵害されたか否かの判断は公権力が行うことになります。その際には、規制に反対する当該表現は問題ないと考える女性の自己決定(意思)は無視される結果になります。「集団的な人権」により、「個々の女性の人権」が制約されることは明らかに不当な結論です。特に、漫画やゲーム等のサブカルチャーと言われるジャンルにおいては、数多くの女性クリエイターが活躍しており、今回の議論において規制が想定されているジャンルもまた例外ではないことも、看過されるべきではありません。
第三に、「女性の集団的な人権」という概念を認め、「女性の集団的な人権」の侵害を根拠とする表現の自由の制約を認めることは、非常に安易な「表現狩り」につながりかねず、却って問題の所在を不明確にする危険性が強いと言えます。差別を論じるためには、差別的な表現を避けて通ることは出来ないことは言うまでもありません。
第四に、「集団的な人権」という概念を認めてしまうと、「集団的な人権」の対象となる集団が際限なく広がってしまいます。例えば、「イスラム教徒」の「集団的な人権」を守るために、イスラム教の預言者ムハンマドの風刺等をする表現を規制したり、あるいは、「ユダヤ人」の「集団的な人権」を守るために、ホロコースト否定論を規制したりすることも可能になりますし(なお、私はホロコースト否定論者ではありませんし、ホロコースト否定論を初めとする歴史修正主義については批判的な立場であることを付言します。)、国松元警察庁長官銃撃事件が公訴時効にかかった後の警視庁の「言い訳」は、「オウム真理教信者」の「集団的な人権」を侵害することにもなるでしょう。むしろ、「集団的な人権」という考え方を推し進めるのであれば、特定の集団を特別扱いしないという「平等」の観点からは、「イスラム教徒」、「ユダヤ人」、「オウム真理教」等々の「集団的な人権」を認めるという方向性に行くのではないかと思います。表現の自由は画餅となることは明らかです。
第五に、「集団的な人権」を認めてしまうと、特定の「集団」が自らに対する批判を封殺するための手段として、刑事手続きや訴訟制度を悪用する可能性があります。例えば、ある企業ないし団体の構成員が、自らの所属する集団に対する批判を封殺するために、個々の構成員が原告となって一斉に全国で訴訟提起するようなことが考えられます。実際、「幸福の科学」という宗教団体の信者らが、「幸福の科学」に対する批判的な記事を掲載した出版社に対し、訴訟を提起しているという事件が過去にあります。
以上の通り、「第8分野 女性に対するあらゆる暴力の根絶」、「8 メディアにおける性・暴力表現への対応」「(1) 施策の基本的方向 女性をもっぱら性的ないしは暴力行為の対象として捉えたメディアにおける表現は、女性に対する人権侵害であり、男女共同参画社会の形成を大きく阻害するものである。こうした性・暴力表現については、インターネットの普及等を通じて発信主体が社会一般に拡大していることに加え、パソコンゲーム等バーチャルな分野においても、国際的に重大な懸念が表明されるコンテンツの流通が現実問題となっていることから、有効な対策を講じる。」こと、「(2) 具体的な取組 ④ メディア産業の性・暴力表現の規制に係る自主的取組の促進、DVDやビデオ、パソコンゲーム等バーチャルな分野における性・暴力表現の規制を含めた対策の在り方を検討する。」ことには反対いたします。
☆★☆★第12分野「メディアにおける男女共同参画の推進」に対するパブリックコメント☆★☆★
第12分野「メディアにおける男女共同参画の推進」「「Ⅱ 今後の目標」、「女性や子どもをもっぱら性的ないしは暴力行為の対象としたメディアの表現は、それ自体が「人権侵害」であるという観点から啓発を行うとともに、メディア側の自主規制等の対策を働きかける。」(p52)、「⑤ メディア業界の性・暴力表現の規制に係る自主的取組の促進やDVDやビデオ、パソコンゲーム等バーチャルな分野における性・暴力表現の規制を含めた対策の在り方を検討する。」(p53)ことについて、意見を述べます。
「女性や子どもをもっぱら性的ないしは暴力行為の対象としたメディアの表現は、それ自体が「人権侵害」であるという観点から」という表現からも明らかなように、「第3次男女共同参画基本計画策定に向けて(中間整理)は、表現行為が「女性」や「子ども」の「集団的な人権」を侵害することを問題としています。
(省略=第8分野に対するコメントの下線部と同じ)
以上の通り、第12分野「メディアにおける男女共同参画の推進」「「Ⅱ 今後の目標」、「女性や子どもをもっぱら性的ないしは暴力行為の対象としたメディアの表現は、それ自体が「人権侵害」であるという観点から啓発を行うとともに、メディア側の自主規制等の対策を働きかける。」(p52)、「⑤ メディア業界の性・暴力表現の規制に係る自主的取組の促進やDVDやビデオ、パソコンゲーム等バーチャルな分野における性・暴力表現の規制を含めた対策の在り方を検討する。」(p53)ことには反対いたします。