「集団的人権論」に対する反駁
特定人を名宛人としない性的な表現物が子どもや女性等の人権を侵害するという議論(?)をされている方々がいます。これを「集団的人権論」と仮に呼ぶことにします。実際には、人権でも何でもなく、自分達が好ましくないものを弾圧する口実として「人権」概念を用いているだけの屁理屈ですが、説得力があると誤解してしまう人が出ても困ります。
以下、「女性」を例にとって集団的人権論に対する反駁を行います。「女性」のところは、「子ども」に置き換えても、大体話は通じます。性的な表現物ではなく、いわゆる差別発言、ヘイトスピーチ等に対する規制を求める議論に対する反駁としても使える議論です。
なお、差別発言、ヘイトスピーチ等への法的な評価に関する私の見解は以下の過去記事を御参照下さい。
【石原慎太郎】姜尚中氏の福岡応援に石原知事反発 「怪しげな外国人」【問題発言】
日本国憲法第13条に「個人として尊重」とあるように、個人の尊厳こそが人権の根拠とされており、人権概念の根底にあるのは、自己決定権です。「集団的な人権」という概念は、自己決定権を基調とする日本国憲法の人権概念とは相容れないものです。我が国における人権制約の唯一の根拠は、「公共の福祉」ですが、これは人権と人権が衝突する場合の調整原理です。「集団的な人権」という概念が認められない以上、表現の自由と対立する人権が存在しないというべきであり、「集団的な人権」の「侵害」なるものは、表現の自由を「法的」に制約すべき根拠とはなりえないというべきです。
ポイントは「法的」にということです。表現に対する評価は当然自由に行われるべきものであり、批判、議論の対象とする自由は当然にあります。また、政治的な責任の追及も当然にありえるでしょう。しかしながら、「法的」な責任を負わせる根拠にはならないし、「法的」に表現の自由を制約することの根拠とはなりえないのです。
理念的な問題はさておいても、表現の自由に対する法的な制約の根拠となりうる「女性の集団的な人権」という概念を認め、「女性の集団的な人権」の侵害を根拠とする表現の自由の制約を認めることは、以下の通り、著しく表現の自由を制約する結果を生じせしめますが、これは、また、この規制を盛り込むのは『北京宣言行動綱領 第Ⅳ章 戦略目標及び行動』に記載されている「表現の自由に矛盾しない範囲」文言に反し(http://www.gender.go.jp/kodo/chapter4-J.html)、また、日本国憲法第21条に反するものです。
第一に、特定の個人を名宛人としない表現行為には具体的な被害者がいない以上、「集団的な人権」が侵害されたか否か、どの程度侵害されたかは、公権力が恣意的に判断することが可能になります。謂わば、公権力に表現内容の是非を判断させる自由裁量権を付与するに等しい結果となります。実際には、具体的な人権侵害を離れた、「~の尊厳に対する罪」のようなものになり、戦前の不敬罪に類似した規制となってしまいます。
第二に、「集団」に属する個人の自己決定権を無視することになります。「集団的な人権」が侵害されたか否かを判断するのは誰なのでしょうか?表現をどのように受け止めるかは、最終的には個々人の問題です。人の感性がさまざまである以上、ある種の表現について差別的と受け止める女性もいるでしょうし、あるいは、問題ないと受け止める女性もいるでしょう。全ての女性に意見を聞くのでしょうか?全ての女性の意見を聞くことは現実的ではない以上、「集団的な人権」が侵害されたか否かの判断は公権力が行うことになります。その際には、規制に反対する当該表現は問題ないと考える女性の自己決定(意思)は無視される結果になります。「集団的な人権」により、「個々の女性の人権」が制約されることは明らかに不当な結論です。特に、漫画やゲーム等のサブカルチャーと言われるジャンルにおいては、数多くの女性クリエイターが活躍しており、今回の議論において規制が想定されているジャンルもまた例外ではないことも、看過されるべきではありません。
第三に、「女性の集団的な人権」という概念を認め、「女性の集団的な人権」の侵害を根拠とする表現の自由の制約を認めることは、非常に安易な「表現狩り」につながりかねず、却って問題の所在を不明確にする危険性が強いと言えます。差別を論じるためには、差別的な表現を避けて通ることは出来ないことは言うまでもありません。
第四に、表現の自由に対する法的な制約の根拠となりうる「集団的な人権」という概念を認めてしまうと、「集団的な人権」の対象となる集団が際限なく広がってしまいます。例えば、「イスラム教徒」の「集団的な人権」を守るために、イスラム教の預言者ムハンマドの風刺等をする表現を規制したり、あるいは、「ユダヤ人」の「集団的な人権」を守るために、ホロコースト否定論を規制したりすることも可能になりますし(なお、私はホロコースト否定論者ではありませんし、ホロコースト否定論を初めとする歴史修正主義については批判的な立場であることを付言します。)、国松元警察庁長官銃撃事件が公訴時効にかかった後の警視庁の「言い訳」は、「オウム真理教信者」の「集団的な人権」を侵害することにもなるでしょう。むしろ、「集団的な人権」という考え方を推し進めるのであれば、特定の集団を特別扱いしないという「平等」の観点からは、「イスラム教徒」、「ユダヤ人」、「オウム真理教」等々の「集団的な人権」を認めるという方向性に行くのではないかと思います。表現の自由は画餅となることは明らかです。
第五に、「集団的な人権」に対する侵害を根拠とする表現の自由に対する法的な制約を認めてしまうと、特定の「集団」が自らに対する批判を封殺するための手段として、刑事手続きや訴訟制度を悪用する可能性があります。例えば、ある企業ないし団体の構成員が、自らの所属する集団に対する批判を封殺するために、個々の構成員が原告となって一斉に全国で訴訟提起するようなことが考えられます。実際、「幸福の科学」という宗教団体の信者らが、「幸福の科学」に対する批判的な記事を掲載した出版社に対し、訴訟を提起しているという事件が過去にあります。
以上のとおり、「集団的な人権」に対する侵害を根拠とする表現の自由に対する法的な制約を認めることは、とりもなおさず、個々の人権を軽視することに繋がりかねないだけではなく、特定の集団による恣意的な言論弾圧を正当化するために使われる危険性があるのです。